いまから３年前の1994年。笹原亮はジャアク商会代表藤井をバイクの後ろに乗せ、ダラットからホー・チ・ミン市までの250キロを走破することにした。
　しかし、なにを思ったのか主要国道を走らず、途中のイリンから緑深い山の中の未舗装路を突破しようとし、そのあげくに山道の途中でバイクのエンジンを破壊させてしまった。

　もはや２人乗りで走ることはできず、笹原は慣性の法則に従って単独でバイクを山から下ろし、藤井は野生動物の生息する残り50キロあまりの山道を徒歩で降り下るはめになった。この記録はその旅のリターンマッチである。

（当時の藤井の怒りの記録については　「５．悪夢のトレッキング」に詳しく書かれています）

　今をさること約３年前、ロードタイプのオートバイでベトナムの山道を分け入り、エンジンに穴を開け、後輪をパンクさせ、同乗者（注：藤井のこと）を延々ン十キロに渡って歩かせヒンシュクを買った私は、リターンマッチを堅く心に誓っていた。
　そのチャンスがついにやってきた。今回のバイクはヤマハのDT125、型は古いがオフロードの名機だ。さらに甘言を弄してロードタイプのバイク(ＶＭＥＰの125cc）に乗る友人の山下を誘い、サポート体制も万全である。

　今回、前回とは逆の方向から山道（とはいっても国道28号線という立派な名前がある）を攻めることにした理由は特にない。ただ、最初に海に行くと言った方が山下を巻き込みやすいかな?というおぼろ気な策略があったことは事実である。
　そんな心をひた隠しにした私と、なんにも知らない山下は朝８時にサイゴンを後にし、ファンティエットに向かった。

　ファンティエットはサイゴンの東200Kmにある漁業とニョクマムで知られた街だ。特にニョクマムは南のフーコック島産とトップを争う特産品で、味、色、においと三拍子そろった逸品である。
　などと考えながら走っていたら、街中にニョクマムの臭いがたち込めているような気がしてきた。
　あわてて海岸沿いの道を走り街から遠ざかる。ヤシの木が生い茂る絶好のドライヴコースだが、一緒にいるのが山下では、トホホである。

　途中のバンガローが建ち並ぶリゾートで遅い昼食。ムニエルだのラザーニヤだのが並ぶメニューは田舎町とは思えぬおいしいさでしかも安い！……ものの、シックな食事の相手が山下で、トホホ度はさらにアップしたのだった。

　翌朝、安ホテルのツインで南京虫にやられて目が覚めた。海辺で風に吹かれながら朝飯を食い、いよいよあの山道に出発だ。何も知らない山下の目が輝いている。
　リエゾン区間というべき舗装路を過ぎ、道は赤土の未舗装に変わる。やがて３年前にパンクを直してボられたバイク屋が右手に現れた。別に用はないので、ガンを飛ばしただけで先をいそぐ。

　いよいよ山に差しかかったところで道が二またに分かれている。近くにあるのは３年前に同乗者が止められ尋問されたＰＢ（警察官の詰め所）だけだ。
　大胆にも山下が道を聞きにいく。私は木陰で一休み、と思ったら、奴はすぐに戻ってきた。

　昇り勾配はだんだんきつくなる。こぶし大の石が転がる路面は振動が激しくかなり走りにくい。が、３年の月日は道をも変えるのに十分だったと見えて、小川を越えたり、岩を迂回することもなく、途中の湧水までついた。
　水がうまい。どこで飲んでも山の水はうまいが、暑いベトナムで飲むとひとしおだ。腹に染み渡り、汗となって全身から流れ落ち、また山に帰っていく。ありがとう、冷たい水よ、またあう日まで。

　後ろ髪をひかれる思いで水場を後にし、また山を上る。右側が開けずっと海まで見渡せそうな場所にでた。地元の人もここが好きだとみえて、たき火の跡がある。しばらくたたずんで遥か海からの風に吹かれた。

　頂上にある少数民族、コホー族の村に近づくにつれて、雲が多くなってきた。やがて、木々の間に高床の家が見え隠れしはじめ、村に着いた。午前11時、この村で一休みして、できれば昼食もすませたい。道沿いの雑貨屋で、コーヒーの飲める店をたずねる。
　コーヒーの飲める店のおばちゃん、ナムさんはチャム族とベトナム(キン族)のハーフ。旦那は明らかに少数民族の顔だ。
　しかし、ナムさんはコホーの村で、ベトナム人として暮らしていた。店を開き、発電機を持ち、夜は近所の人を集めてヴィデオ大会を開く。他に１〜２軒ある店もすべてベトナム人の経営だ。

　コーヒーを飲んでいると、ナムさんが山の向こうを指さして、向こうは午後いつも雨が降る。道がぬかるんでとても街までたどり着けないから、今夜はここに泊まって、明日午前中、天気がいいうちに街まで行った方がいい、と言う。たしかに向こうは黒い雲に覆われている。
　しかし、どこに泊まれというのだろう。ベトナムで外国人が一般民家に泊まるのはまだ難しいのだ。こんな所にホテルがあるのだろうか？

　とりあえず村を見て回ることにした。荷物とバイクをナムさんの店において歩き始めた我々を村人が取り囲む。大人は畑にでているのか、圧倒的に子供が多い。
　子供たちに近づくと、走って逃げる。男の子も女の子も、とにかく逃げる。なおも追うと、必死になって逃げる。追うのをやめるとまた近づいてくる。しかし決して３m以内には近づかない。そんな風に子供をからかっても、大人たちはただ笑って見ているだけだ。

　いつのまにか大きな道をそれて、裏路地に紛れ込んでいた。雨がぱらつき出す。軒を借りて雨宿りをしながら、土間でおやじが篭を編むのを見ていたら、お茶を呼ばれた。 ベトナムには53の少数民族が住んでいるが、ほぼ全員ベトナム語を話す。だから、簡単な話なら、ベトナム語を知っていれば誰とでも話せてしまうのだ。
　１mほどの高床の家にあがり込んでござの上にじかに座り濃いお茶を何杯ものみながら、話す。５〜６年前まで、生活が苦しかったが、コーヒーを作るようになってから現金収入ができ、やっと食べるのには困らなくなった、と言って笑う。
　ホテルはあるのか？と聞いたら、もちろんない、と言われた。しかし、半年ほど前、アメリカ人が８人自転車で来て、学校に泊まったという。そのほか、何人か外国人が泊まったことがあるそうだ。前例があれば大丈夫だろう、と山下と顔を見合わせた。日曜日なので、サッカーの試合の審判に行く、というおやじに別れを告げ、また村ブラに出発した。

　村の一番低いところに大きな空き地があって、人だかりがしている。どうやら本当にサッカーをしているようだ。ちょっと見ていこうとグラウンドに近づいたら、いきなり後ろから声をかけられた。振り返ると、目付きの悪い中年のおやじがガンを飛ばしてきた。
　ここはお前らの来るとこらじゃない。さっさとでていけ！
　今まで会った村人のフレンドリーな態度とまったく違う。こういうとき逆らうと後がややこしくなるのは、日本でもベトナムの山の中でも同じである。
　気分は悪いがシカトを決め込んでその場を離れた。

　ナムさんの店に戻ってその話をした。どうやら奴はおまわりらしい。これで我々が村に泊まることはできなくなった。
　３時になってしまったが、雨の中を出発だ、と荷物をまとめ始めたら、心配するな、大丈夫だ、とナムさんが言う。
　このおばさん、村の経済を一手に握っているので結構実力者なのだろう、すぐにおまわりと話をつけてきた。結局、我々はナムさんの家に泊まることになり、安心して腹の減った山下は、店の唯一の食い物メニュー、インスタントラーメンを２人前ペロリと平らげた。

　翌朝、快晴の空の下、食費を払って出発だ。なぜか宿代は請求されない。ナムさんも宿だとは思っていないのだろう。
　予想通りいくつかの沼状のぬかるみがある。私にはたやすく越えられるところでも、山下には底無し沼となり、スタックする。前輪とフェンダーの間に泥がつまり前輪が回転しなくなるというドロブレーキ状態に何度も陥り、その度に木の枝などで泥を掻き出さなければならない。

　ぬかるみ以外は快適な道が続く。久しぶりのオフロードですっかりうれしくなった私は、後輪をスライドさせてコーナーを攻め、出っ張りでジャンプし、ドロをはね飛ばしてぬかるみを突っ切る。
　そんな私を見て、山下もスピードを上げてぬかるみに突っ込んだ。しかし、もう少しというところで前輪を取られ、奴は頭からドロの中へダイブした。水牛と化した山下はドロの中で、しばらく愛車と戯れるのだった。

　すれ違う人が多くなり、谷間にベトナム風の家が見えはじめると、そこはもうイリンの街だ。
　楽しい時間は、あっと言う間に過ぎる。11時すぎにイリンに着いた我々は、舗装路を一路サイゴンへ向かった。