ラッタナーコシン王朝史

ラーマ6世からラーマ7世へ

by 藤井伸二+ブライアン

 

 偉大なラーマ5世に続くラーマ6世(ワチラウット王)は、文化と文芸の才に優れた王であった。
 歴代国王を 「ラーマ**世」 と呼ぶことに決めたのは、実はこの王である。
 父ラーマ5世の命により、シャム国王として初の9年にわたるイギリスでの留学後、1910年11月に即位し、1911年7月に国内でボーイスカウト運動を始め、1922年にはシャム国赤十字協会を創立。さらに、先代ラーマ5世が創立させた文官養成学校を現在のチュラロンコーン大学へと発展させた。
 1917年10月には、国旗を従来のエラワン白象旗から現在の赤白青の3色旗に変更し、仏暦をシャムで最初に使用して祝祭日を制定。チャオプラヤー川にかかる最初の橋の建設に着工し、ドン・ムアン空港を整備し、シャム国で初の銀行を創設した。
 1912年には名字令を制定して国民に名字を持つようにすすめ、1921年10月には小学校令を定めて教育の普及に力を注いだ。義務教育制度もこの時導入されている。
 1917年7月22日に、第1次世界大戦に連合国側から参戦することに決めたのも、このラーマ6世だ。これによってシャム国は国際連盟に加盟することになり、列強の統治を受けない独立王国としての地位を確立した。

 文学演劇についても造詣が深く、シェイクスピアの戯曲をタイ語に翻訳したり、日本を題材にした小説を書いたり、みずから演技もされた。
 また、その文才を生かして諸外国の言語から多くの新造語を作り出し、タイ語の語彙を豊かなものにしていった。

 しかし、文系の人にありがちなことで、この王も経済観念がなく、国家財政の管理は極めて放漫であったらしい。1912年には腹心による王制転覆計画が発覚したほどで、結果的にはこの時代の放漫財政が、チャクリー王制全体の苦境を招く結果となっている。

 さて、150年近くにわたって綿々と続いてきたチャクリー王朝が最大の危機を迎えるのがラーマ6世の弟であるラーマ7世が王位に就いた時期だ。
 西欧諸国で軍事関連技術や作戦などについて学んでいたプラチャティポック王子は、兄王の崩御後、1925年11月に王位に就く。
 ラーマ6世には嫡子がなく、そのため弟が王位を継ぐことになったのだが、本人はそれほど国王の座を熱望していなかった。軍事関係の仕事の方が好みで、留学後も陸軍の指揮をとられていたほどだ。

 ラーマ7世の時代は世界が大恐慌の恐怖に襲われ、経済全般が不況に陥っていた最悪の時期だった。
 シャム国もその例外ではなく、王国は未曾有の不況状態にあり、前国王による緩んだ財政管理の幅寄せも押し寄せてきて、国家の財政難は日に日に深刻化している状態にあった。

 ラーマ7世は、この危機を打開するためにいくつもの強硬な改革を断行し、王室予算を最盛期の1/3に切り詰め、国家予算を節約するため官吏の大幅人員削減を行ったのだが、これが当時の権力者たちの不評を買い、結果的には大失敗してしまう。
 それでも王は、チャクリー王朝150周年を祝う行事を1932年4月に華々しく執り行うが、混迷の時代はそんな悠長さを許してくれなかった。
 記念行事からわずか2カ月後の6月24日、シャム南部の町ホアヒンの離宮で保養中に武官派のパホン大佐と文官派の首領プリディが率いる人民党の立憲革命が起こり、これが無血のうちに成功する。
 150年間続いてきたシャム国の絶対王制はここで終わりを告げ、以後シャム国は、立憲君主制国家として生まれ変わった。

 王制は新国家の象徴として存続されることになったものの、国王は絶対権力者から国家元首へと格下げされ、その専制的な力を奪われた。
 実は、この革命以前から絶対王制の未来に悲観的だった王は、みずから絶対権力を捨て、立憲民主制国家への移行を検討されていたのだが、王族の強烈な反発にあい、実現せずに終わっていたのだ。
 立憲民主国家の樹立は時代の必然であったのかもしれない。
 タイ国内は、その後しばらく王制派と民主派との争いが続いた。

 革命勃発後も、王はホアヒン離宮に退避されていたが、革命の意図を納得した後は都に戻り、6月27日に臨時憲法を、12月10日に新憲法をそれぞれ公布し、人民党のマノパコーンを首相として任命して、絶対王制をみずからの手で葬り去った。
 しかし、王は革命の翌年、眼病の治療と称してイギリスに赴き、2年後の1935年3月2日、イギリス国内で自主的に王座から降りられてしまう。革命の真の目的は権力と利権欲によって汚されていた。それは王が理想としていた人民のための民主主義とは違っていたのだ。

 革命新政府と王族の取り扱いを巡って対立し、絶望した王はその後二度とタイ(革命後の1939年6月にシャムから国名変更された)の地を踏まれることはなく、6年後の1941年、バンコク市内に民主記念塔が完成した翌年に、異国でひっそりと崩御された。
 遺骨となって王が帰国されたのは、それから、さらに8年後のことであった。

 

 

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